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やっちゃん
 


 

やっちゃんはようやく言葉を覚え始めたばかりの女の子です。パパとママの初めての子供でした。昼間はママとふたりですが、夜には仕事から帰ってきたパパがやっちゃんと遊ぶのを楽しみにしていました。やっちゃんの家族はマンションに住んでいて、お休みの日にはベビーカーに乗せてもらって公園に行ったり買い物に行ったり、パパもママもやっちゃんをとても可愛がってくれました。
 

ある夜、やっちゃんはパパとママが言い合いをしている声で目が覚めました。やっちゃんは何となく悲しく寂しい気持ちがしましたが、そのうちにまた眠ってしまいました。その頃から

やっちゃんが起きているときでも、眠っているときでも、ときどき、パパとママは言い合いをするようになりました。やっちゃんにはなんで言い合いをしているかはわかりません。それでも、パパもママもやっちゃんには優しくて一緒に遊んでくれました。パパとママが笑っているとき、やっちゃんはいちばん幸せな気持ちになります。言い合いをすることもあったけど、いつものように三人一緒にお出かけすることもありました。
 

でもだんだんと言い合いすることが多くなり、昼間、やっちゃんとママだけのとき、ママがテーブルにうつぶせて泣いていることもありました。やっちゃんはそばでどうしたらいいかわかりません。やっちゃんも泣きたくなります。
 

ある日、その日は休日で、いつもなら三人で買い物に行くかどこかにお出かけすることが多いのですが、朝からパパとママは言い合いが止まりません。やっちゃんはそばで一人、早く仲直りしてふたりとも笑ってほしいと思っていました。そのうちにママは泣き叫び始め、パパは何か怒鳴って出て行こうとしました。やっちゃんは驚いてよちよちとパパの後を追いかけました。「パパ・・・」。パパはやっちゃんを見て悲しそうに微笑んで手を振り、やっちゃんもパパを見つめて手を振りました。でも、それから玄関を開けるとパパは出て行ってしまい、ママは後ろで座ったまま泣いていました。
 

その日から、パパは家に帰ってこなくなり、毎日やっちゃんはママと二人きりでした。ママは、やっちゃんが生まれる前から家で仕事をしていましたが、パパが出て行ってから仕事の時間が増え、やっちゃんはテレビのアニメや幼児番組を見たり、ひとりで遊ぶことが多くなりました。でもときどきはママと二人で公園に行ったり買い物に行ったりしました。夜になるとやっちゃんは玄関のほうの物音が気になって仕方がありません。何かカチャッと音がすると、パパが玄関を開けて、いつもどおりの笑顔で入ってくるのではないかと、そちらのほうを見てしまいます。でも何か月たってもパパは帰ってきませんでした。ときどきなんだか悲しくなって泣きたくなり、ほんとに泣いてママを困らせることもありました。なぜ泣きたくなるのか、やっちゃんにはよくわかりませんでしたが、パパが帰ってこないことが寂しかったのです。
 

ある日の夕方、やっちゃんはママと二人で公園に行きました。やっちゃんは落ち葉やドングリを拾って地面の上に並べたりして遊び、ママはベンチに座ってやっちゃんを見守っていました。やっちゃんがきれいな小石を見つけてママに見せようと顔を上げた時、男の人が近づいてきました。やっちゃんはその姿を見てはっとしました。立ち上がると、よちよちとその人のほうに歩いていき、自然と言葉が出ました。「パパ・・・」。男の人は、ちょっと驚いた顔をして微笑み、やっちゃんに軽く手を振って、でもそのまま行ってしまいました。知らない人でした。でもパパに少し似ていたのです。やっちゃんもパパではないことに気がつきましたが、そのままじっと後姿を見つめ続け、寂しくてどうしようもない気持ちで胸がいっぱいになりました。


 

(2022年3月27日)

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