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細い道

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 その家は、小さな山の中の窪地に建っていました。山の一部に狭い切り通しのような切れ目があって窪地に細い道が通じ、道の上には木々が覆いかぶさってトンネルのようになっています。家は板張りで、居間と食堂の窓が庭に向かって大きく開いていました。

 お父さんは、いつも朝早く、背広を着て帽子をかぶり、仕事に出かけます。庭はほとんどが畑で、花や野菜が、少しずつ植えられていました。お母さんが買い物に行くときは、ボーヤも一緒に、細い道を抜けて町に行きます。細い道を抜けると、畑の広がる道に出て、少し歩くと町がありました。お母さんは、「ボーヤ、絶対に、ひとりで外に出てはいけませんよ。帰ってこられなくなりますよ。」と、何度も何度も繰り返し言いました。窪地の家では、毎日が穏やかで、とても緩やかに時間が過ぎていきました。

 

 ある日、ささいなことで、ボーヤが駄々をこね、お母さんに叱られました。ボーヤが意地になって泣きやまないので、お母さんは、とうとう、「そんな子はもういりません、どこにでも行きなさい。」と言いました。ボーヤは、しくしく泣きながら、すねて細い道のほうに歩いていきました。ふらふらと細い道から外に出ようとしたときに、後ろでお母さんが、「ボーヤ~、外に出てはだめ~。」と大きな声で叫ぶのが聞こえましたが、ボーヤは、そのまま泣きながら、外の道に出てしまいました。

 

 外の道に出ると、いつもの畑の横の道とは違い、家が立ち並ぶ路地になっていて、子供たちが遊んでいました。ボーヤが不思議に思って子供たちに気をとられていると、遠くから「ボーヤ~」と呼ぶお母さんの声がかすかに聞こえたので、振り返ると、さっき通ったばかりの細い道がありません。そこには建物が建っていました。ボーヤはようやく、大変なことになったことに気がついて、泣きながら、あの細い道を探しまわりましたが、だんだんと暗くなり、どうしても細い道は見つかりませんでした。

 

 ボーヤは、その後、子供のいない夫婦に引き取られ育ちました。小学校に通い始めてからも、ボーヤは、ときどき、あの町角に行き、あの細い道を探しました。でもやはり、そこには建物が建ち並ぶばかりで、細い道なんてありません。新しい両親も優しくしてくれましたが、あの家のお父さんお母さんを忘れることが出来ませんでした。

 

 ボーヤはのびのびと成長し、中学校、高校、大学と進みました。友達もでき、スポーツや音楽を楽しみ、その後、父親の仕事を継ぎました。そして恋をしました。

 恋人は音楽が好きで、ボーヤに自分が大好きな曲のCDをプレゼントしてくれました。ボーヤも、その曲が好きになって、二人でよく聞きました。そして結婚して、子供も二人できました。女の子と男の子です。幸せな日々が過ぎていきました。

 

 大人になってからも、ボーヤは、時々あの町角に行きました。でも、あの細い道は、やはり見つかりません。誰も信じてくれませんし、ボーヤも年をとり、昔の記憶が少しずつ薄れていき、あの家の思い出も、本当のことだったのかどうか、だんだんと、わからなくなっていきました。

 

 ある日、ボーヤは、いつものように仕事に出かけようとしましたが、妻は玄関で見送りながら、「今日は早く帰ってきてね。」と、にっこりしながら言いました。子供たちも顔を出して、「いってらっしゃい」と見送ってくれました。その日は妻の誕生日だったのです。いつもと変わらない幸せな朝でした。

 その日の午後、妻に前から約束していた誕生日のプレゼントを買ったあと、仕事相手と喫茶店で話をしていると、帽子をかぶった一人の老人に目がとまりました。ボーヤは、ハッとしました。なんとなく、あの家のお父さんのことを思い出し、老人が似ているような気がしたのです。でも、ずいぶん年をとっています。老人は離れた席に一人で座っていました。ボーヤが仕事の話をしていて気がつくと、もう、老人はいませんでした。ボーヤは、あわてて仕事の話を切り上げて、店の外に出ました。でも、老人の姿は見えません。ボーヤは、あの町角のほうに向かって走り出しました。

 

 その町角まで行くと、思った通り老人の姿が見えました。でも、老人が誰なのか確信もないし、人通りもあったので、大声で呼びかけることができずにいると、老人の姿が、ふっと見えなくなりました。急いで近くまで行って、そのあたりを見まわすと、建物と建物の間に細い道がありました。大人ひとりがやっと通れるぐらいの細い道です。それまで何度来ても気がつかなかった道でした。ボーヤは、その建物の間に入って、道を進んで行きました。歩いていくと、木々が覆いかぶさったトンネルのような道になり、切通しを抜けると、広い庭の中に、記憶の中のあの家がありました。手入れはされているようですが、すっかり古びて、あちこちが朽ち果てそうになっています。

 ボーヤは、胸がドキドキしてきました。家に近づいて、窓から、そっと中をのぞいてみると、老婦人がテーブルに向かって、うなだれて座っていました。老人がそばに立っていて、老婦人が話しているのが聞こえてきました。「あの子にひとこと、あのときあんなに叱ってごめんねって、言ってあげたかった。」

 ボーヤはその言葉を聞いて、遠い昔のあの日のことをはっきりと思いだしました。そして、お母さんが、あの日からこんなに長い間苦しんでいたことがわかり、胸がいっぱいになりました。

 ボーヤは、ドアのあるほうにまわると、ノックしました。静かにドアが開いて、老婦人がボーヤを見つめました。

 「おかあさん・・・。」

 すると、見る見るうちに時間が逆回転し、すべてが新しくなり、すべてが若くなり、ボーヤの頭からは、いろいろな記憶が消えていき、ボーヤの体はすっかり小さくなって、着ていた服がぶかぶかになり、ポケットからは誕生日プレゼントの包みが転がり落ちました。老婦人も、老人も、ボーヤの記憶の通りのお母さんとお父さんになりました。お母さんは、泣きながら、ボーヤを抱きしめました。

 

 それから、ボーヤはその家で、昔のように暮らしました。まるで、何もなかったかのように。でも、あるとき、あの曲がラジオから流れてきて、ボーヤはびくっとしました。何か忘れてはいけないことを忘れていたような気がしました。とても大切な、とても愛していた人たちのことをすっかり忘れていたような気がしました。そして、「早く帰ってきてね。」と言われたことや、何か約束していたことなどが、ぼんやりと頭に浮かんできました。でも、それが夢だったのか本当のことだったのか、考えれば考えるほどわからなくなって、悲しくて、ただ涙があふれてきました。

 

 それからボーヤは、なんとなく細い道の向こうのことが気になってしかたがありませんでした。そして、ある日とうとう、細い道に向かって一人で歩きだしました。お母さんが気づいて、後ろで叫んでも、わけもわからず細い道を一人で行きたくなって、木々の覆いかぶさる道を走り抜けました。でも、外の道に出ても、そこには畑が広がるばかりで何もありません。お母さんがあわてて追いかけてきたので、ボーヤは手を引かれて、細い道を戻りました。涙が止まりませんでした。

 

 その晩、お母さんは昼間の出来事をお父さんに話しました。お父さんは考え込んでからこう言いました。

 「ボーヤが帰ってきたら元通りになるように、時間を巻き戻してボーヤがいない長くてつらい時間を消すよう予めセットしていたのだが、やっぱり完璧には戻せないんだなあ。何か残渣のようなものがあるわけか。ボーヤが帰ってきた時に着ていた服や何かのプレゼントのようなものも消えずに残ったままだよねえ。」

 ボーヤが妻のために買った誕生日プレゼントは、あの日ボーヤが着ていた服と一緒に、タンスの奥にしまってありました。

 月日がたち、ボーヤも、細い道の向こうであったことが頭に浮かんでくることは次第に少なくなり、夢か現実かわからなくなっていきました。だけどお父さんは、何とかしてやりたいと、ずっと考えていました。

 

 実は、お父さんはいろいろな場所に自由自在に行き来でき、時間を操ることができたのです。そのことは家族だけの秘密で、ボーヤも、ずっとあとになるまで知りませんでした。お母さんは普通の女性で、お父さんが街に出たときに出会ってお互いに好きになり、ふたりでこの家で暮らすようになったのです。時空間を操ることができる者が世界に何人いるかわかっていませんし、その存在は一般に知られていません。遺伝で受け継がれることもあるようなのですが、それもよくわかっていません。ボーヤたちの家から外につながる細い道は、お父さんが、いろいろな場所とつながるための道具のような道だったのです。普段は畑の広がる道に出ますが、お父さんがどこか違うところにつながる道を作って通ったあと、ときどき不安定になって元の道に戻るのに時間がかかることもありました。

 ボーヤが迷い込んだ当時は誰も気がついていなかったのですが、ボーヤにも時空間を操る能力が微かながら受け継がれていました。ボーヤがどこか知らない街に迷い込んだのは、ボーヤの能力が何かのきっかけで勝手にはたらいて、道が知らない街とつながった時だったのです。お母さんが追いかけたときにはもう閉じていました。お父さんにも、そのとき道がどことつながっていたのか、知りようがありませんでした。

 お父さんはボーヤが長い不在のあとに帰ってきた時の状況から、ボーヤがどの街で暮らしていたのかはわかりました。それでお父さんは、その街へ行って、いろんな「残渣」を嗅ぎ取り、時間を操って調べたりして、ボーヤがその街でどう過ごしていたのか、おおよそわかってきました。

 

 その後しばらくして、ボーヤは小学校に行く歳になりましたが、それまでに、お父さんは、その街の子供のいない夫婦と親しくなっていて、ときどき妻とボーヤをつれて行くこともあり、家族ぐるみの付き合いになっていきました。そしてボーヤはその夫婦の家から学校に通うことになり、子供のいない夫婦はたいへん喜びました。ボーヤの家からその街には、少し遠いけれど電車に乗れば行くことができます。

 お父さんもお母さんも、ボーヤと離れて暮らすことは寂しいことでしたが、ボーヤの頭の中の悲しい残渣がなくなり、心から幸せになることを願って決めたことです。実際、その街に来るようになってから、ボーヤは漠然とした悲しみに苦しむことがほとんどなくなったのです。それにボーヤも、その夫婦に初めて会った時から、懐かしいような親しみを感じていました。

 お父さんはお母さん以外には、ボーヤが長い不在のあいだこの街で暮らしていたというような話は、一切しませんでした。ボーヤにも話しません。

 

 ボーヤはのびのびと成長し、中学校、高校、大学と進みました。友達もでき、スポーツや音楽を楽しみ、その後、子供のいない夫婦の仕事を継ぎました。そして恋をしました。恋人と初めて出会ったとき、ボーヤは昔から知っていたような何とも言えない親しみを感じて不思議な気がしたのです。

 

 彼女は音楽が好きで、ボーヤに自分が大好きな曲のCDをプレゼントしてくれました。ボーヤがひとりになってそのCDを聴いてみると、あの曲が流れてきて、ボーヤの頭の中に閃光が走りました。小さなころ頭の中にぼんやりと繰り返し浮かんできて、もうほとんど忘れていた、夢か現実かわからないような映像がよみがえってきたのです。これまでも漠然と、前にもあったような気がすると思うようなことが度々あって、ただの気のせいだろうかと考えてきましたが、それがぼんやりとした夢のようなものではなく、確かな記憶のようによみがえってきたのです。ボーヤは呆然となってつぶやきました。

「僕は・・・帰ってきた?」

でも、恋人やほかの誰に話しても理解してもらえません。お父さんとお母さんも、そのときはまだ話をはぐらかして、取り合いませんでした。

 その後しばらくして、ふたりは結婚し、子供も二人できました。女の子と男の子です。幸せな日々が過ぎていきました。ボーヤのお父さんとお母さんも時々訪ねてきます。

 

 ある日、ボーヤは、いつものように仕事に出かけようとしました。妻は玄関で見送りながら、「今日は早く帰ってきてね。」と、にっこりしながら言い、子供たちも顔を出して、「いってらっしゃい」と見送ってくれました。その日は妻の誕生日だったのです。いつもと変わらない幸せな朝でした。

 その日の午後、妻に前から約束していた誕生日のプレゼントを買ったあと、仕事相手と喫茶店で話をしていると、離れた席に、帽子をかぶったお父さんがいることに気がつきました。仕事相手と別れたあと、お父さんのテーブルのところに座ると、お父さんがボーヤの目をじっと見つめて、ゆっくりと話し始めました。

 「お前の頭の中にぼんやりと浮かんできた夢のようなもの、ここからがその夢の続きの始まりなんだ。もうお前は、その夢が夢ではなく現実だったと気がついてるのかもしれないがね。」

 そしてお父さんは、自分に時間と空間を操ることができる能力があることや、ボーヤがあの細い道に迷ってから今までの物語を、初めて話しました。

 「お前が以前この街で暮らして起こったいろいろなことを、ここまでもう一度紡ぎ合わせるのは大変だったよ。細かいところまでは完璧でないかもしれないけれど、肝心なところはきちんと同じさ。そうでないと意味がないからね。だけど、あるところからは、わしが何もしなくても自然に同じになっていくものらしい。それは、魔法のような力ではなく、自然の摂理が働いたんだよ。だから、お前の子供たちも以前と同じで、まったく変わらないはずさ。

今まで黙っていたのは、話してしまうとお前が変に意識して行動してしまい、違う方向に自然の摂理が働いてしまうことを恐れたからなんだよ。わしは、お前が悲しみの残渣で苦しまないように、それだけを願っていたが、ようやくここからは新しい始まりだ。

お前にも微かに受け継がれているらしい能力は、今からでも訓練を積めば使えるようになるかもしれないが、人と違う能力なんて使わないほうが幸せかもしれない。お前は今充分幸せなんだし。だが、われわれのような能力を持つ者は限られているから、この能力は伝え残すべきなのか・・・。そのことは、いずれまた考えよう。今日は早く帰ってあげなさい。」

 ボーヤは、初めて聞く話に驚いたり納得したり、すべてを理解するのに少し時間がかかりましたが、次第に頭の中がはっきりして目が覚めたような晴れ晴れした気持ちになりました。

 

 お父さんと別れ、仕事も片づけて家に帰ると、妻と子供たちが「お帰りなさい」と言い、ボーヤは「ただいま」と言い、妻にプレゼントを渡しました。そして妻と子供たちを抱きしめ、もう一度「ただいま」と言いました。自然と涙が出てきましたが、妻の目からも涙があふれました。妻や子供たちの心の中にも、長い空白がようやく閉じたような、わけのわからない漠然とした「残渣」があったのです。

 

 あの家のタンスの奥にしまってあったプレゼントはもう古びてしまい、やはり古びてしまった服と一緒に、今もまだそこにしまってあります。

 

 

 

2015年12月20日~2016年1月10日(※第1章のみ)

2019年4月28-5月1日、9月10日追加改訂(※第2章を追加)

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