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1952年8月3日

            

 1952年8月3日が、近づいていた。彼はずっと前から、そのことを意識していた。1926年の2月19日以来、彼はその日をずっと待っていた。あくせくと毎日働いて26年あまり、彼はこの8月3日を確かめたくて、ただそれだけで生きてきた。結婚もしなかった。いつもよそ者の気分を味わいながら、毎日毎日その日を待ち続けて働いてきた。

 

 8月1日から彼は工場を休んで、26年前に一度訪れたことのある町まで出かけることにした。長い間汽車に揺られて、その町に着いたのは8月2日の夜だった。その日は町のホテルに泊まった。

 8月3日はどんよりと曇った日だったが、ひどく蒸し暑かった。彼は朝早く目が覚めた。胸がドキドキしたけれど、わざとゆっくりと行動した。落ち着かない気分で午前中を過ごしたが、何も変わったことは起きなかった。午後の1時になると彼はひどく焦りを感じ始めた。

 ホテルを出ると、急ぎ足で町の西のほうへ歩き出した。道はよく知っていた。歩きながら、とても気が焦った。泣きたいぐらいに彼は興奮していた。

 3kmほども歩くと家が一軒見えてきた。26年前にはなかった、広い草原の中の一軒家だった。でも、彼には見覚えがあった。100mほどに近づいて彼は歩く速度を落とした。心を落ちつけるように、ゆっくりとその家に近づいた。

 近づくにつれ不安は大きくなった。窓ガラスは破れていた。板壁には穴が開いていた。人の気配はなかった。扉の前の壊れそうな階段をのぼり、破れた窓から中をのぞいてみた。がらんとした室内にはほとんど何もなかった。彼は、その部屋にも見覚えがあった。扉には錆びた南京錠がぶら下がっていた。扉をこじ開けて中に入った。

 

 ひどく蒸し暑くて・・・・

 彼は外の木陰に長い間座っていた。気持ちが落ち着いてから、ずっと考え続けていた。

《俺の生まれたのは、確かに1952年の8月3日、この家でだ。今日がその日で、だから父さんや母さんやばあちゃんがいて、今日から本当に、俺がこの世にいるはずなんだ。1978年の冬の日に、酔っ払ってアパートに戻る途中、凍った雪に滑って転んで、気がつくと1926年だった。わけもわからず、誰にも信じてもらえず、それから26年間、とにかくこの日を待った。この日になれば何とかなるかもしれないと。

俺が今日の何時に生まれたかはよく知らない。でもきっと、二人の俺が同時に存在するはずはないのだから、ここで今日、俺が生まれた瞬間に、この俺は消えて元の時代に戻れるかもしれないと、それだけを信じてずっと生きてきた。

せめて父さん母さんに会いたかった。会って話したかった。

・・・

要するに何かが違っている。》

 1926年からの世界は彼が知っている通りに進んできた。だけど、何かを変えると何かが変わることを恐れて、彼はこれまでひっそりと目立たないように生きてきた。予知能力があるなどと騒がれたくもなかった。元の時代に戻りたい一心で、人と付き合うことも避け孤独に生きてきた。

 空はどんよりと曇り、太陽がどこにあるのかもわからなかった。

 彼はようやく腰を上げ、ゆっくりと歩き始めた。いろんな疑問が次々と彼の頭に浮かんだが、考えても何もわからなかった。ただ、合わせて52年間の彼の人生が、どうしようもなく空しく思えた。

 町まで歩きながら、一歩一歩、次第に彼はなんだか解放されたような気持にもなっていった。待つことや期待することから解き放たれ、もうどうでもいいような。

《目立たないように何も変えないように生きてたって仕方がなかったんだ。これからはもう「予知能力」でもなんでも発揮して、やりたいように生きればいいさ。・・・》

なんだか力が抜けて、涙がぽたぽたと地面に落ちた。

 ただもう一度、26年前に結婚したばかりで「1978年」に残してきた妻に、会いたくて仕方がなかった。

(1984年1月23日)

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