top of page

ある少女の思い出

 

 夜遅く、家に帰ろうと薄暗い道を歩いていた時、ふと、ある少女のことを思い出した。

 

 僕が子供のころ住んでいた町には二つの民族の人たちが住んでいた。二つの民族は宗教が異なり言語も異なっていたが、言葉のほうはお互いまぜこぜで通じ合ていた。異なる民族同士の結婚ということも多くはなかったが珍しくもなかった。地区によってはどちらかの民族が多いという住み分けも多少はあったけれど、僕の住んでいる地区では混住していて、僕は多数派民族に属していた。

 その少女は僕の家の近くに住んでいて、歳も同じ幼馴染で小さいころからよく顔を合わせていた。少女は少数派民族の子供だったが、僕たちが幼いころは民族同士がいがみ合うこともなく大人も子供も仲良く暮らし、僕と少女も近所の子供たちと一緒によく遊んでいた。学校に行くようになり少しずつ成長して、僕たちも無邪気に遊ぶことはできなくなったが、少女は顔を合わすとよく話しかけてきた。ときどき離れたところから僕が見つめると、少女も気が付いて微笑みながら見つめ返してきたり、お互いになんとなく意識しあっていることに気が付き始めていたが、子供だったし照れくさくもあり、それ以上親しくはなれなかった。今思うとあれが初恋だったのかもしれないが、もっと淡くてはかなかったように思う。

 そのころ、どこか遠くの地方で少数派民族の誰かが多数派民族から差別されていると訴え、さらには少数派民族の独立を叫び始めた。するとそれに反発して多数派民族による少数派民族に対する差別意識が膨らみ始め、多数派民族の過激派は民族浄化などと叫び、流血事件が起こるようになった。こうして、最初は些細な出来事から始まったと考えられる民族の対立意識は徐々に増幅して国全体に広がり、収拾がつかない状態になった。

 僕たちの町でも、次第に民族同士がお互いを疑い警戒しあうようになり、それまでなかった差別意識が芽生えてきた。大人たちは次第に興奮し始め、僕たち子供もそんな大人たちに感化されていった。それでも少女は顔を合わせるといつものように話しかけてきたり、離れたところから僕を見ていることもあったが、僕は次第に目をそらし避けるようになった。話しかけてくる少女を無視して素っ気なくしたときの寂しそうな表情を今でも覚えている。僕はそのころのことを思い出すと苦しくなる。なぜあのときは優しくなれなかったのか、まわりの年長者たちに同調することで自分が大人びたようなつもりになっていたのか、それは僕の幼さのせいだったのか、答えの出ない煩悶を繰り返す。

 そんなとき近隣の大国同士が戦争をはじめ、僕の国も巻き込まれて参戦した。そのために、民族対立以来反政府的だった少数派民族に対する弾圧が公然のこととなり激しくなっていった。愛国心と民族主義と猜疑心が混ざり合って燃え上がり、多数派民族はこの国は自分たちの国であり少数派民族はよそ者だと主張し始め、あちこちで少数派民族への迫害が始まった。

 僕の町でも、少数派民族の裕福な人たちは早めに他国へ移住するようになったが、少女の家族は裕福でもなくツテもないのか、町から出ることはなかった。とにかくその頃はみんなが興奮し疑心暗鬼にとらわれ冷静でいることができず混乱していた。

 ある日、僕たちの町に正規軍ではない民兵の一団がやってきて、少数派民族の家をチェックして印をつけて回った。多数派の住民の中にもそれに抗議するものがいたが、そうするとその家も印をつけられたので誰も抗議できなくなった。チェックし終わると民兵たちは少数派民族を戦時措置として隔離収容すると言って狩り出し、町はずれに造った塀囲いの中に集めた。

 少女の家族が追い立てられて行くとき、僕は道に立っていた。少女は家族と一緒に持てるだけの荷物を持って、民兵たちに連れていかれた。僕のほうに近づいてきたとき、悲しそうに何か言いたそうな顔をして僕を見つめたが、何も言わずに僕のすぐ前を通り過ぎた。僕は勇気を出して少女の名前を呼んだ。少女は立ち止まって振り向き、泣き笑いみたいな顔をして微笑んだが、すぐに追い立てられて行ってしまった。民兵が僕をにらんだ。

 その後、民兵たちは少数派民族をトラックに載せてどこかに運んで行ったが、数日たったころ、大人たちが話しているのを聞いた。

「みんな殺されたそうだぞ。」

大人たちはざわめき、僕の体から血の気が引き、戦争や民族主義の興奮が冷めていった。僕はそれ以来、何にも熱中することができなくなったような気がする。熱中して冷静さを欠き判断を誤ることが怖くなった。

 それから一年ほどで戦争は敗北で終わった。戦争に敗れると民族対立の嵐は急速に萎み、二つの民族はしこりを残しながらも共存の道を歩むようになった。だけど、僕の町から追い立てられていった人たちは、やはり戻って来ることはなく、少女の家にも別の家族が住むようになった。あとで知ったことだが、あの民兵たちは少数派民族絶滅を掲げる急進的民族主義者たちの集団で、実戦には参加することなく終戦の前に解散し消えてしまったそうだ。それからもう何十年もたち、僕は町を離れて異国の地で暮らしている。あの町に帰ることもなくなってしまった。

 

 夜遅く、家に帰ろうと薄暗い道を歩いていた時、僕に振り向いた少女の悲しく微笑んだ顔を一瞬思い出した。少女の名前を思い出そうとしたが、もう思い出せなかった。少女は、僕の頭の中のぼんやりした記憶以外に何の痕跡も残さず、消えて行った。

(2020年07月10~11日)

© 2014-2024 Suga Toshiaki Gallery All Rights Reserved©
  • Twitter Metallic
  • s-facebook
bottom of page